東京の下町、葛飾区柴又の住宅街の一角にある小さなオートバイショップに独特の「声」が響いた。経営する鈴木裕司さん(68)が声帯を失ったあとに体得した、食道を使う声だ。話す際は、声が出やすいように、首の付け根に開けた10円玉大の呼吸用の穴に手をあてる。
まだ現役世代の60歳の時、実兄と営んでいた自転車店をたたみ、自宅のガレージを店舗にした。古いオートバイを修復し、再び走らせる仕事で、長年の趣味が実を結んだ。しかし、開店後間もなく、耳の痛みがひどくなり、下咽頭(かいんとう)がんが分かる。
咽頭がんは、音楽プロデューサーのつんく♂さんがかかった喉頭(こうとう)がんと同じ「のど」のがんだ。鈴木さんは発見時、進行した「ステージ3」。放射線治療などは「間に合わない」(医師)状態だった。告知後すぐに主治医から治療の選択を迫られた。声帯を摘出する▽声帯は残すが、栄養摂取のためおなかに穴を開ける「胃ろう」に▽治療をせず、痛みをコントロールする――だ。
「生きる以外に選択はない」と、鈴木さんは声帯摘出を選んだ。主治医から「もう声は出ない」と言われたが、病院の待合室で、喉頭(声帯含む)を摘出した人を支援する公益社団法人「銀鈴会(ぎんれいかい)」(東京都港区)を紹介する本を見つけ、門をたたくことにした。
●食道をふるわせ
銀鈴会は1954年に設立された。喉頭摘出者に新たな発声法を伝授し、「早期の社会復帰を手助けする」ことを目的に活動する。秋元洋一副会長は「がん患者は、体だけでなく心も病みがちですが、社会に参加することで立ち直ることができる」と話す。
発声法は主に3種類。電動式器具を首に密着させる方法もあるが、広く採用されているのは「食道発声法」だ。食道などから空気を吐き出す際に、入り口部分を振動させて声を出す。早ければ半年の訓練で話せるが、途中で挫折する人も少なくないという。
自らも喉頭を摘出した太田時夫専務理事は「噺家(はなしか)やミュージシャンが、声帯を残して命を失う。そんな話を聞くと、『ここに来てくれていれば』と残念でなりません」と話す。「元の声を失っても、その人にしかできない仕事があるはず。人生観は人それぞれだが、新たな声を得る可能性があることだけは知ってほしい」
●会話がリハビリ
鈴木さんも努力して食道発声法を習得し、店を再開した。初めての客も来店するが、皆、話をよく聞いてくれる。「仕事で人と話すこと自体がリハビリなんです。家に閉じこもれば、発声力が途端に衰えてしまう」
5年前には大腸がんも見つかり、腹腔(ふくくう)鏡手術を受けた。今は治療を終え、定期的に検査するが、がん再発の不安から逃れることはできない。「仕事をしていなければ、余計なことばかり考えて不安に押し潰されたかもしれない。そうなれば死ぬことを考えたかも」。笑顔が絶えない鈴木さんが、神妙な表情を見せた瞬間だった。
妻(67)は薬剤師として働き、鈴木さんの収入は、自分や孫に使うこともできる。今は週3回、銀鈴会の指導員も務め、自分の経験も伝える。
●仕事と両立に壁
2012年度から5年間を対象とする国の「がん対策推進基本計画」には、がん患者への就労支援が盛り込まれており、厚生労働省は昨年2月、検討会を設置し、支援の仕組みづくりが進む。
ただ、がん患者がいったん休職して復帰し、さらに治療と仕事を両立するには、依然として多くの壁がある。
がん患者の治療と仕事の両立に向け、病院としての取り組みを研究する聖路加国際病院(東京都中央区)の山内英子ブレストセンター長は指摘する。「雇う側と患者が同じテーブルに着く土壌はようやくできつつあります。一方で、がんに対するマイナスのイメージは根強く、病を公表できない患者もまだ多い」【三輪晴美】
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がん患者にとって仕事は、暮らしと治療を支える手段だけでなく、病に対する不安やつらさを紛らし、社会で自らの存在を確かめつつ生きる力となる。日本人の2人に1人ががんになる時代。さらに、新たにがんが発覚する約30%は、15歳から64歳の働く世代だ。がんになっても仕事を続けられる環境を作るにはどうしたらいいのか。悩める患者や雇用側を訪ね、今、何が必要かを探る。=つづく