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災害時「荷物を持ってあげること」でも助かる医ケア児・障害児家族支援 開かれなかった福祉避難所、一般の避難所ではカバーできない酸素ボンベや電源確保、介助スペース...能登半島地震を体験したソーシャルワーカーが見た現場の課題

 「どんな状況下でも、子どもの権利を中断させてはならない」。1月に能登半島地震に見舞われた石川県の医療的ケア児(医ケア児)支援センターの中本富美センター長(58)が、鹿児島市のハートピアかごしまで講演した。「支援者の自分自身も傷んでいる」と影響の大きさを明かしつつ、医ケア児の避難生活の実情や災害対策の課題を語った。要旨を紹介する。

 センターは2年前、県が金沢市の医王病院内に開設した。ソーシャルワーカーの私と医師1人が常勤する。家族会とともに医ケア児の暮らしを知ってもらう写真展や、在宅移行前に「先輩ママ」を派遣する事業などに取り組む。

 県内の医ケア児は約200人。18歳未満には、その子の状態や必要なケアを記した「災害時あんしんファイル」を作成し、病院では東日本大震災をきっかけに患者家族と避難訓練を行っていた。

 地震が起きた1月1日午後4時10分、日直で病院にいた。何が起こったのか分からず不安と恐怖を感じた。在宅の子どもたちの無事は、担当の医師らによって確認できた。

 震災後に家族会などが行ったヒアリングによると、福祉避難所は開かれず、人が集まる地域の避難所には行けない多くの人が車で過ごした。「車内のおむつ替えはスペースがなく大変だった」「荷物が多く苦労した」との声があった。避難所に身を寄せた人からは「夜中に大声を出したり、泣いたりするので他人の迷惑になる」という悩みも聞かれた。

 支援の中で強く感じたのは、どんな状況下でも「生きる」「育つ」「守られる」「参加する」といった「子どもの権利」を中断させてはならないこと。災害は特別な状況を作り出す。子どもにとって当たり前の暮らしや経験が失われてしまうかもしれない。医ケア児は特に影響を受けやすい。

 地震翌日、医ケア児がいる能登地方の家族と連絡が取れないとの報告を受け、小児科医のネットワークと対応した。倒壊寸前の避難所にいると分かり、入院を調整。地域の基幹病院は機能不全に陥っており、県DMAT(災害派遣医療チーム)を通して金沢市内の病院に搬送した。酸素ボンベの残量は少なく、時間との戦いだった。全壊した自宅には戻れず、ホテルや応急住宅への入居手続きを支援。教育委員会と連携して転校手続きも進めた。

 震災を経て地域の指定避難所へ行くべきか、避難所の電源を確保できるのかなど疑問が浮き彫りになった。子どもの個別避難計画の作成も遅れている。研修会や避難訓練を通し「分からないことを分かる」必要がある。

 災害時は自助だけでなく共助も重要になる。医ケア児や障害児は専門職しか関われないとのイメージを持たれる。だが、当事者家族に一番してほしいことを聞くと「荷物を持ってもらうこと」と答えた。地域に住む子どもの一人として知ってもらい、日頃からつながりを築いておきたい。

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