急性期病院のICUにお勤めの看護師Fさんにお話を伺いました。ご家族の意外な言葉に、入れ歯の大切さをあらためて感じたというお話です。
その日、救急車で搬送されてきたのは60歳前後の男性Tさん。心筋梗塞で、
搬送されてくる間に意識を失い心臓停止状態だったそうです。救急車を降りてか
らICUに運ばれる間も、ご家族の目の前で心臓マッサージが続いたといいます。
緊迫するICU。数分間マッサージを続けると、停止していた心臓がやっと動き
始め、スタッフは胸をなでおろしました。
「もう大丈夫ですよ。中へどうぞ」
Fさんが声をかけると、ICUの前で立ち尽くしていた奥さんと娘さんのこわ
ばった表情が一気にゆるみます。くいいるようにTさんを見つめるお二人。その
とき、思いがけない言葉を奥さんがつぶやきました。
「……この顔、本当におとうさんなんですか?」
意外な言葉に驚いたFさんは、なぜそんなことを聞くのか奥さんに尋ねてみま
した。すると、困った口調でこう答えたのです。
「入れ歯をはめていないと別人のようだわ。入れ歯を入れてもらうことはできま
すか? こんな顔を見たら孫が大泣きしてしまいます……」
確かに、蘇生のときに入れ歯をはずしたTさんの顔は、口元に張りがなく、年
齢より10歳以上は老けて見えました。でも、生きるか死ぬかというときに何を
いい出すのだろうと、Fさんは思ったそうです。
けれども、奥さんの真剣な顔を見てハッとしました。こんな状況だからこそ、
いつもと同じおとうさんであって欲しいと願うのかもしれない。そう思い直した
といいます。
命に関わる治療が優先で、入れ歯など二の次だと思うのは医療者の発想ではな
いか。それ以来、Fさんは主治医や歯科スタッフと相談して、できる限り早い時
期から、入れ歯を入れるようにしているとのこと。それは患者さんの食べる機能
の維持に必要なのはもちろん、ご家族の安心のためにも大切だとFさんはいいま
す。