患者や家族が在宅医療に踏み切ろうとする時、いくつかの壁が立ちはだかる。その一つが、食物が誤って気管に入る誤嚥の恐怖だ。78歳男性は食べることが大好きだった。年を重ねるにつれ、食べ物を飲み込む嚥下力が衰えた。食べてはむせる。体はやせ細り、寝たきりになった。
病院医師の勧めで、へその横から胃へ穴を開けて、栄養液の注入口にする「胃ろう」を作るための手術を受け、2009年秋に自宅へ戻った。デイケア施設に行くと、みんな楽しそうに昼食を食べている。自分は、胃ろうに管をつなぐだけ。食事の時、男性はいつも昼寝をしているふりをした。しょんぼりしている男性を見かねた在宅主治医が、口の機能検査を受けたらどうかと提案した。
野原は、大阪大歯学部付属病院で嚥下のリハビリを専門にしている。7年ほど前、知り合いの歯科医に「在宅診療を手伝って」と頼まれ、訪問診療を始めて驚いた。食べる力はあるのに、胃ろうで栄養をとっている人がたくさんいたからだ。患者の家族や訪問看護師は、誤嚥が怖くて胃ろうに頼っていた。当初は野原も、口から食べさせた担当患者がむせたり、肺炎を起こしたりするたびに落ち込んだ。だが、次第に「何でも食べられるようにしなければ」という思い込みから解き放たれていった。
嚥下の訓練や誤嚥のリスク対応などを身につけた「嚥下トレーナー」を育成しようと、野原は小谷らと共にNPO法人を作った。歯科医、歯科衛生士らを対象にした研修会は、事業開始から1時間足らずで満員になる。これまでに数百人が修了した。野原は、認知症患者の家族が語った言葉が忘れられない。「話しかけても返事はないけど、私の料理を食べてくれる」。食べることは、家族との大切なコミュニケーションの手段でもあるのだ。
朝日新聞 2011.11.30